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(「鼓動は意識すればするほど煩くなる」)
家の扉を開くと、途端に廊下を駆ける音が聞こえた。
足を滑らせる音でも続けば愉快なのにと考えるも、期待は今日も裏切られて母親が顔を出す。
母親は大袈裟に溜息をついて息子を迎えた。
「良かったわもう、帰りが遅いから母さん心配しちゃった」
「普通だよ」
「だってもう外は暗いんだもの、何かあったらって思うと心配で心配で」
玄関脇の時計を確認すれば、時刻はまだ七時を少し回った所。
中学生の息子に対して抱くには些か過剰な心配。
靴を脱ぐその肩に置かれた手の温度が不快で押し遣る。
――耳鳴りが聞こえ始めた。
母親は無言の拒絶に気付いた様子無く笑った。
「そうそう、ご飯の準備するわね」
「要らない。外で食べた」
「……あら、また? 駄目よ、外でなんて。栄養が偏るし、何が入ってるか分からないのよ?」
「大丈夫」
「何言ってるの、母さん、あなたの体を思ってるんだから。明日はちゃんと早く帰ってきてね?」
「ウィットル三次元からの通信が届いたら、そうする」
会話に混じった意味不明の単語に、母親は一瞬眉根を寄せるも笑みは結局途絶えない。
不都合な事は無いものとして扱うから。
――頭が痛みだした。
「そんなのよりも母さんの言葉を信じてちょうだい。母さんは誰よりも菫を見てるんだから」
「そうかな?」
「ええ、たった一人の息子の事、見ていない訳ないじゃない」
――ざりざりざり。耳鳴りが酷くなる。
「……ふうん?」
微かに鼻で嗤ったのは聞こえなかったらしい。
鞄を担ぎ直して部屋へと向かう。
その背に母は更に何事か告げた様だったが、菫は既に聞いていなかった。
廊下を曲がって自室に入る。
――ドアノブを握った手先は冷たい。
電気を付けていない部屋の中でも、デジタル時計の表示は見えた。
七時七分。
時間を確認して後ろ手にドアを閉めると、菫はそのままの姿勢でずるずると座り込んだ。
軽く頭を押さえる。
痛い。
みみもとでざわめくなにかがきこえる。
ざりざりざりざりざりざりざりざり。
(奇怪なる彼らはユルシアノせか聞き聞いてさそして事実ット!あはははで唸る耳耳耳ニュースですそこにいるの手がきっとイキキュキキキキざりく……氷。これじゃだめだよざりざうんベリドきじで外ある敗退ロウウウ朝朝朝麻で?)
耳鳴りがする。
頭が痛い。
手先が冷たい。
聞こえる聞こえる。
意識の混濁。
さて喋っているのは僕か私か彼らか誰か誰かこれは誰。
冷たい手先で頭を押さえたけれども耳鳴りは止まず。
(喜ばしき出来事はイアアア遠くにだから貴方はそうやっ笑えるチ、チ、チ、チチチチ殺されますよあ、待って徒の既得走るのは『初めまして!』サクトルトの原でざり彼らは呵責にイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ)
ざりざりざりざりざりざりざりざり。
誰。
誰。
今聞いているのは誰此処にいるのは誰此処にいるのは誰。
ざりざりざりざりざりざりざりざり。
誰誰誰。
「――菫」
段々早くなっていく心中の問いに、現実の口から条件反射の様に言葉が零れ落ち、意識を引き戻す。
音が遠くなった。
耳鳴りが僅かに薄くなる。
気が付けば見開いていた目を、緩く閉じる。
ざり、ざりざり、ざり、ざり。
「私は菫」
繰り返す。
自らに向けて繰り返す。
『声』が聞こえるのは鬼頭菫だから。
そして自らが鬼頭菫ならば、『声』に取り乱す必要は無い。
繰り返す。
取り戻す。
揺らぐ必要など無い私は鬼頭菫。
繰り返す。
取り戻す。
ざり、ざり、ざり、ざ…………。
先ほどまで何の順序も規則性も持たずに耳元を過ぎって行った言葉が徐々に薄くなり、整然と並び始めた。
消えていく声は構わずに、大きい声に時折耳を傾ければいい。
自らが鬼頭菫である限り『声』は付き纏うのだから、いっそ友人であればいい。
『声』は鼓動と同じ事。
常に傍らにあるも、意識しなければ無いも同様。
だから困惑する必要は無い。恐れる必要は無い。
頭痛も耳鳴りも消え、冷えた手先に温度が戻る。
「私は鬼頭菫」
小さく、しかしそれでもはっきりとした芯を持って呟けば、先程の感覚は完全に失せた。
一度息を吐けば、常の薄笑いを浮かべる余裕も出来る。
親愛なる友人たちの『声』は今や気にするまでも無く、遠くなった。
完全に力を抜いて座り込む。
目を開いて真っ先に目に入った時計は、七時十一分を差していた。
(そう何も怖くは無い私は鬼頭菫!)